2008年11月16日日曜日

オリエントからのオリエンタリズム①

先日、といってももう1ヶ月くらい前になるけど、今橋映子の『フォト・リテラシー』という本を読んだ。

その中で、自分にとって興味深かったのが、
「HCB(アンリ=カルティエ=ブレッソン)が異文化を撮った写真の中にオリエンタリズムはないのか?」
という議論だった。

実際、「興味深かった」なんていう生易しいものではなくて、何も考えず自分の好奇心に従いナイーブな旅行を繰り返してきた自分をガツンとぶん殴ったのが、
そもそも「写真における異文化表象」とは何か、説明するために引用された次の中平卓馬「旅のもつ詐術」からの一節だった。


「私は、同世代の多くの写真家たちがアメリカへ行き、ヨーロッパ、あるいは遠くアフリカ、ラテンアメリカへ出掛けて撮ってくる写真に感動させられることがほとんどない。 (省略)私はすぐに、あれこれの土地、あれこれの場所に出向いてゆくならば、ただその気になりさえするのなら、そのようにひとびとは生き、事物は存在しているのだろうと、一気に全てを<了解>してしまうのだ。(省略) 一言で言ってしまえば、これらの写真には一様に、旅行者だけが持つ甘えた感傷とそれと裏腹にあるつきなみな希釈された好奇心がべったりと貼りついている」


別に、自分の好奇心の源泉に疑問を今まで疑問を感じていなかったわけではなかったけれど、
「甘えた感傷」「つきなみな希釈された好奇心」とはっきり批判されると動揺せずにはいられない。

次に今橋(敬称略)は、異文化撮影の対象として東方(オリエント)を挙げ19世紀後半におけるオリエント写真の隆盛を指摘し、「<東方>に対する知識の総体」を意味した「オリエンタリズム」という用語が、西ヨーロッパの植民地支配体制が拡大された時代において次のように意味が変わることを、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』におけるオリエンタリズムの定義から説明する。
すなわち、オリエンタリズムとは、


「近代世界の覇者である西欧が、征服の対象である一つの世界を認識し、表象する行為を通して、自らと異なるもの、<他者>として定立し、その<他者>との対比によって自らを<主体>―征服し、認識し、表象する能力の独占者―として定立することを可能ならしめる(完全に意識化されていないが、イデオロギー的に機能する)言説」


「近代世界の覇者である西欧」を「近代東アジア世界における覇者である日本」と読み替えれば、この図式はそのまま「日本人」の自分にも当てはまることになるわけか。

そして今橋は、前述の「旅におけるエキゾチシズムの詐術を見抜いた」中平卓馬の評言に、「支配者側の人間が他者としての異文化を見る眼差しの政治性を加味すれば、そのままオリエンタリズムの問題系に移転する」、として両者を同列に扱い次のように結論付ける。


「表現者にとって、未知の世界の、異なる事物の発見であったつもりが、実に何百年にも及ぶ文学や映像の常套化した表象の焼き直しに過ぎないとすれば、その表現者の『眼の記憶』の中に、エキゾチシズムやオリエンタリズムはすでに埋め込まれていることになる」

そして、カルティエ=ブレッソンの写真においても「確かに無意識に固定化された観念」を読み取るべきだ、と。


昨日、2007年の春に行ったインド旅行の写真を少しUPしてみた。
あのインド旅行からは1年半経っている。

もはや自らの中に染み付いているエキゾチシズムやオリエンタリズムを否定することは不可能だ。
とすると、とりあえずできることは

果たして、僕の「確かに無意識に固定化された観念」とはどういうものなのだろうか?

考えることしかないだろう。

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

その①だから議論はその②にに続くのかな?
なんだか大学の講義を受けてる気分で
あります私。YOKOMICHI先生!

匿名 さんのコメント...

2待ってますw

s.Yoshimitsu さんのコメント...

そう、②に続きます。
まだ全然考えられてないからいつ書けるかわからないけど、気をなが~くしてお待ちくださいw

petit.printemps さんのコメント...

この記事気に入った!今橋先生の本私も気になってたんだよね、読んでみようかな。
この前HSPの院生がパキスタンに行った写真を見せてたんだけど、その中にホームレスのおばあさんを撮ったのがあって、それを見たとき「!#$%&+*?」って感じで、というのもなんでそんな写真が撮れるのか(いろんな意味で)って思ったんだよね。そしたらどうもそれはその人が撮ったのではなくて、プロの写真家が撮ったものを買ったらしい。てことは、カメラとそしてカメラのこちら側から様々な視線を向けられたおばあさんは、その瞬間から商品として「オリエンタリズムの埋め込まれた眼」に消費されることになるのか。
たとえばフォトジャーナリストが「現状を伝える」ためにセンセーショナルな写真を撮ることは確かに必要かもしれないけど、その背後にこうした暴力的な商品化の構図を想像してしまうとけっこうおそろしい。

s.Yoshimitsu さんのコメント...

カメラを通して人を撮る時って、そもそもその人が写真を撮られることを嫌っているかもしれない、っていう可能性がある。
だから、そういうのを無視して他人を撮った写真って、彼または彼女の意思を無視している点で、その人を「その人個人」としては見ていない。
そうじゃなくって、その人を意図された「人の集合体」を代表するイメージとして捉えてる気がする。
たぶん、「(いろんな意味で)」っていうのにはこういうのも含まれてると思うのだけど、これも個人を無視するっていう点で暴力だとしたら、商品化と二重の暴力ってことになる。

ここまで考えて、ん゛~って思って今橋さんの本読み返してみたら、ここから今の僕の発言はきたのかぁ、ってなことが書いてあったわw
本読んだら、前期で受けた授業はサボりまくったのに、駒場帰ったらまた授業取ってみちゃおっかなぁ、って思うくらい面白いし、誠実だし、なんか親しみも覚えるよ。