2011年9月11日日曜日

宗教について考えたこと ~イスラエルを旅して~


2011年8月14日、テルアビブからバスで1時間も行くと、
そこには砂と岩だけの荒野が延々と広がっていた。
その光景は確かに壮大だった。
けれども、きれい、と素直に思える景色ではなかった。
なぜなら、そこに植物や生き物の気配がなかったからだ。



日本であれば、青空の下には深い森が広がっていただろう。
雲ひとつないのは、水気が全くない証拠だ。
「厳しい環境だからこそ、イスラム教のような厳しい宗教が生れた。」
とはよく言われる。でも、このイスラエルの地で
神の存在をどこに感じろというのか。
そもそも、どうやって生きていけるというのか。



それでも、この地に人は2000年以上前から暮らしてきた。
しかも、厳しい戒律を求めるユダヤ教に対し、
「許し」を施すキリスト教が生れたのはこのイスラエルの地だった。
けれども、日本のように何にでも神が宿っている、「八百万の神」
という考え方が生まれないのはよく理解できた。
この不毛の大地では、そんな悠長なこと言ってられない。



そんな厳しい環境の中、彼らを更なる絶望に追い落としたのは、
この死海だと思う。
荒野を旅した人々が、やっとたどり着いたオアシス。
のはずが、植物も育たない、生物もいない、
飲み水になる筈もない塩の湖なのだから。
では、そんな絶望の底で彼らは何に神(希望)を見出したのか?



この死海の光景を見た時、そのひとつの答えを出すことができた。
いくら生き物がいなかろうと、緑が一点たりともなかろうと、
この地球が織りなす光景というのは時に超絶に美しい。
たとえ、疲労と空腹に身を悶えようとも、生への意志ある者は、
美しいものに感動せざるを得ないのではないか。
その考えに至ったとき、すべてを超越する神の存在を信じる人々を
すんなり自分のなかに受け入れることができたような。