2012年1月15日日曜日

8か月、テレビなしの生活をして

正月に実家に帰り、テレビを前に食っちゃ寝のんじゃ寝の1週間で、久しぶりにテレビをじっくりと見て、思ったところ。

4月に大阪のメーカーに就職し、寮住まいが始まると同時に、テレビのない生活が始まった。
情報源は、朝食の時読む新聞と、通勤電車で眺めるTwitterのみ。。
ここ2カ月くらいは、朝食をオフィスでパンを食べるようになり、電車の中も本を読むようになり、アクチュアルな情報とはほぼ接触のない生活。。。

ここで苛まれるのは、自分が社会と繋がっていない!!という焦り。
去年は、やはり特別な1年だった。3月に地震があって、原発事故は今も尾を引き、夏場は節電、秋には大阪統一選。。新聞やらである程度情報は得ていたけれども、世間の空気がよくわからない。地震は忘れ去られていないか、原発に対して正確な情報が報道されているのか、大阪統一選はお祭りに騒がれているだけなのか、なでしこがかわいいというのは本当なのか。。。

正月に久々にテレビの前にいると、、地震の報道はされていた。忘れられてなどいなかった。むしろ忘れていたのは自分だった。

もっと社会と繋がらないと!社会の空気に触れていないと!!

と思って、正月はテレビを見続けた。
紅白の歌手たちは、みな想いを込めて歌っていた。その想いは心地いいものだった。個人的に、被災地で活動をなさっている方もいた。一般の市民が、結構な人たちが現地に行ってボランティアをしていることも知っていた。日本が一つになっているような気がした。
ただ一方、被災地を中心にぽっかり穴があいているような、ドーナツの美味しいところだけが盛り上がっているような、そんな不安を感じないではいられなかった。

そもそも、社会に繋がっている、とはどういうことなのか?
自分は昨年4月からテレビなしの生活で、社会に繋がっていなかったのか?
否、決して引き籠りになっていたわけじゃない。むしろ、新入社員の研修では100人くらい新しい人と話したし、製造の十種では現場の方々と2ヶ月間8時間以上ライン作業を共にしたし、正式配属の後はあた新しい先輩方と一緒に仕事をしているし。。
とにかく、社会を人と人とのつながりとするならば、いろいろな社会と繋がってきたのが昨年だった。

それでも自分はテレビが見たい。
この気持ちの根幹には、その現実的に繋がっている人々、みんなが知っていることを自分が知らないのは怖い、っていう不安があった。
知りたい、という欲求は、知らないと怖い、という不安と表裏になっている。
だから、見る→知る→安心という一方的な行為の中で、無意識無批判思考停止状態にはまってしまう。。

震災を機に、テレビ界においてはこの、「見る→知る→安心」が一層蔓延している気がする。
日本が一致団結しなければならないという状況下で、Populismが加速している気がする。

実際的に社会に繋がっているからこそ、テレビを通した、真の実態の見えにくい社会との繋がりを求めるのか。
今日、兄貴が余分に持っていたPc用のテレビチューナーを送ってもらった。
身の回りの社会が危機にさらされている今、だからこそ、テレビというメディアを通した社会に熱い視線が注がれている今、どういう報道がされているのか、自分はどうテレビと関わっていくのか、なでしこのロンドンはどうなるのか、しかと見届けようじゃない。

2011年9月11日日曜日

宗教について考えたこと ~イスラエルを旅して~


2011年8月14日、テルアビブからバスで1時間も行くと、
そこには砂と岩だけの荒野が延々と広がっていた。
その光景は確かに壮大だった。
けれども、きれい、と素直に思える景色ではなかった。
なぜなら、そこに植物や生き物の気配がなかったからだ。



日本であれば、青空の下には深い森が広がっていただろう。
雲ひとつないのは、水気が全くない証拠だ。
「厳しい環境だからこそ、イスラム教のような厳しい宗教が生れた。」
とはよく言われる。でも、このイスラエルの地で
神の存在をどこに感じろというのか。
そもそも、どうやって生きていけるというのか。



それでも、この地に人は2000年以上前から暮らしてきた。
しかも、厳しい戒律を求めるユダヤ教に対し、
「許し」を施すキリスト教が生れたのはこのイスラエルの地だった。
けれども、日本のように何にでも神が宿っている、「八百万の神」
という考え方が生まれないのはよく理解できた。
この不毛の大地では、そんな悠長なこと言ってられない。



そんな厳しい環境の中、彼らを更なる絶望に追い落としたのは、
この死海だと思う。
荒野を旅した人々が、やっとたどり着いたオアシス。
のはずが、植物も育たない、生物もいない、
飲み水になる筈もない塩の湖なのだから。
では、そんな絶望の底で彼らは何に神(希望)を見出したのか?



この死海の光景を見た時、そのひとつの答えを出すことができた。
いくら生き物がいなかろうと、緑が一点たりともなかろうと、
この地球が織りなす光景というのは時に超絶に美しい。
たとえ、疲労と空腹に身を悶えようとも、生への意志ある者は、
美しいものに感動せざるを得ないのではないか。
その考えに至ったとき、すべてを超越する神の存在を信じる人々を
すんなり自分のなかに受け入れることができたような。

2011年2月14日月曜日

Kosovo Report (3) Mitrovica

Pizza in the north part of mitrovica,
where the Kosovo-Serbs live as majority.


Now I've finally finished my undergraduate thesis about german engagement to the european foreign policy. In this thesis I focused on the European Union Mission in Kosovo (EULEX) and argued that the mission lacks the mean to reconciliation between the Kosovo-albanians and the Kosovo-Serbs. However it is not the third party that should take actions. In this article I will just point out from my experience in Mitrovica that the history of Kosovo consists not only of the conflicts, but also of the co-existence of the two main ethnic actors in Kosovo.
Serbien church at the top of the moutain
in the north part of Mitrovica
At the park near the entrance of the north part,
where you can see the serbien flags in spite of the albanian flags.
Mitrovica is the simbol of the conflict between the Kosovo-Albanians and -Serbs. The city is devided into two parts by the River Ibar: the south Part is dominated by the Kosovo-Albanians and the north by the Kosovo-Serbs. If you go over the bridge to the north part, you cannot hear Albanian, nor use Euro, which is used as national currency in Kosovo, although the river is not a border, but just a river.
After having stayed in Pristina I went there with my japanese friend. Our bus from Pristina arrived at the south part of Mitrovica and we crossed the bridge, which was under controll by the KFOR soldiers.
Child in the north part of Mitrovica.
In a club in the North.
The most exciting moment came after the dinner at a restaurant in the north. We ate fish dishes and it was late at night around 23. We heard the beats of club music and went down there. We were welcome from heart, maybe because we were strangers there. We made cheers with Kosovo-Serbian guys and girls. What surprised us was not only the kindness of the people there, but also the islamic music, which also can be heard all over Kosovo including the south part dominated by the Kosovo-Albanians. When I saw the people dancing with that music, I figured out that the Kosovo-Albanians and Kosovo-Serbs share the same cultural background. Focused only on the Kosovo-conflict 1999, it would be difficult to have a look at the history in which the two actors live together at the same place. That wonderful experience at the club, however, made me notice the fact that they have lived next to each other over 700 years.











2010年9月20日月曜日

Kosovo Report (2) Pristina

It is my 7th day in Kosovo. Here I will show you some images of Pristina, wishing you could get new images of Kosovo you've never had before.


This is movie Kosovo people watch.

at the center of the city.


You can see some tall apartments like this.
Bill Clinton seems to be the hero for Kosovo-Albanians,
who decided the attack to Belgrade.


Most of them died in 1999,
when the konflikt was at the peak.



Flowers on a yard, just like other cities in the world.


This is not the most of houses looks like,
however, you can see many houses like this.


This is typical house in Pristina.
It seems the house is reconstructed
after half destroyed by the conflict.


mosque.
There are not so many mosques in Pristina
as expected in a islamic district.


orthodox church near the University Library.
It was not destroyed, but not possible to come in.



people in Kosovo are nice
like anywhere in the world.


2010年9月15日水曜日

Kosovo Report (1) Pristina



2010年9月14日、イスタンブールからコソボへ向かう。2008年2月の独立宣言から2年半の経ったコソボはどんなところなのか・・・




空港に降り立ってまずびっくりしたのは、その規模の小ささ。飛行機は自分が乗ってきたのともう1機しか止まっていない。バッゲージクレームも二本しかない。
ちなみに上の写真は入国審査の様子。コソボ人、外国人の区別はなし。少し驚いたのは、出国時の関税検査。金属探知機は基本。怪しそうなやつはバンバンかばんを開けられている。もちろん自分もひっかかった。




空港の外に出ると、ん??どうやって市内まで行けばいいんだ!?目に入るはタクシー。でも、しつこい客引きとかはあまりいない。バスはないかと探すも、ない。というか、いつもなら空港にあるInformationに聞けば何でもわかるのだけど、Information自体がない。空港からバスがないのは、デンパサールに続いて2度目。仕方なくタクシーの客引きの話を聞く。1人は20Eur、もう1人は15Eur。そら後者でしょう。結局なんだかんだ、ホステルまでということで17ユーロになったのだけど、大体相場そんなところらしい。




ちなみに、タクシーからの風景はこんな感じ。草原の風景を基本に、ぽつぽつとレンガ造りの建物が散在している。草原の雰囲気もレンガ造りの建物もヨーロッパっぽいのだけど、タクシーの運ちゃんの音楽は完璧にイスラム風。



彼が、タクシー運転手のホンティ。彼は1990年から99年まで10年間、家族と共にドイツのデュッセルドルフで暮らしていたという。ミロシェヴィッチの圧制から逃げてきたのだろうか、詳しくは聞けなかった。
彼によると、紛争中多くのコソボ・アルバニア人がドイツに逃げたため、コソボ・アルバニア人の2分の1はドイツ語が話せるよ!お前はドイツ語ができてラッキーだ!と豪語していたが、今のところ彼以外にドイツ語を話す人にあったことはないw
ということで次回は、プリシュティナの不思議な街の様子を紹介します。

2010年8月5日木曜日

Hiroshima Nobody















7月の終わりに、広島に行ってきました。