2008年11月1日土曜日

精神と時の部屋にいるという誤解

10月31日、昨日はハロウィーン。
僕はといえば、普通に友達とビールを飲んでいただけ、笑。
むしろ、今日11月1日がキリスト教の死者を悼む祝日らしく、クラブも飲み屋も12時過ぎにはすべて閉ってしまう。
僕にとってハロウィーンは、電車の中でドラキュラに遭ったことくらいw
けど、日本の電車でメイドに会うことはあってもドラキュラには会えなかったから、
それはそれでいい経験だった。

ところで今日は、気づいたら10月が終わっていた!という驚愕について。
10月1日からオリエンテーションが始まり、13日からから授業が始まり3週間が経過。
それだけなのに、10月1日はものすごく昔の話で、ものすごく早くたくさんの時が過ぎた気がする。

けど別に、むちゃくちゃ充実してたとか、忙しかったとか、そういうわけじゃない。
密度としては日本でのそれと同じくらい。(それでいいのか!?)
ただ、留学期間という特別な10ヶ月のうちの1月がいともあっさり過ぎ去ってしまったという焦りの方が大きい。
まだ10分の1とか言ってると、それがすぐに5分の1、4分の1、3分の1・・・となっていく。

正直に言って、
留学というのは精神と時の部屋にいるようなもの、
という誤解が僕にはあった。
精神と時の部屋では、現実の1日が1年になる(だっけ?)。
だから、普通の人にとっては1日しかたってないのに、精神と時の部屋にいる人にとっては1年間時間があり、その時間はその人にとって現実に存在する。
つまり、1日で1年分成長もするが老けもする・・・
留学すればそれだけで精神と時の部屋から出てきた孫御飯みたいになれるじゃないかという誤解。

日本の、図書館でひたすら勉強してる人たちとか、
いろいろ外を駆け回ってる人とかのことを思い浮かべてみる。
彼らがいるところは精神と時の部屋。
僕がいるところは竜宮城。
竜宮城は楽しいけれど、出てきた頃には浦島太郎。
(人より老けてるわけじゃありませんwここでは、精神と時の部屋と竜宮城における時間の長さじゃなくて時間の質を問題にすると、もはやようわからんけど、)
竜宮城で遊びつつ、精神と時の部屋(図書館w)で修行して、帰ってからも玉手箱を開けない賢さを身に着けとく、っていうのがいいのかな?

注:写真は、精神と時の部屋でも竜宮城でもありません。
  さて、どこでしょう??

2008年10月29日水曜日

引き篭もりにしか見えないもの

今日は、ほとんど部屋の外に出なかったから、
部屋の写真を撮ってみよう!
って思い立ち、
気づいたら2時間が過ぎてる。

2時間もかけてこんなんですが、
たった5秒ずつ、
4枚で20秒っきりでいいから、
じ~っと見てみて。










意外と、5秒って長い。。
一応、モチーフは「目」、特に「瞳」。
瞳だと思わなくても、5秒が長いって感じてもらえたら成功かもしれない。

見てくれた人、
見てくれてる人、
ありがとうございます。


Look if you like, but you will have to leap.

一昨日、朝起きて携帯を見たら、8時半だった。
その後パソコンを開いてみたら、7時半だった。
これがサマータイムってやつだったのか。
なんか、得した気分だった。


昨日、
さっそく大江健三郎の短編を読んでみた。
えらく動揺した。
サマータイムが終わると、
陽が沈むのも1時間早くなるということに。


今日は、雨だった。
間引きした。
ずいぶんすっきりした。
雨だからこそ、バスに乗らずに外を歩いてやりたくなった。

2008年10月26日日曜日

他中心的アジア主義?

今日は、大江健三郎の朗読会に行ってきた。
何でも、ドイツで"Sayonara, meine Buecher"(Sayonara, my books)という新刊の発売を記念したものらしい。
元の本の名前は何なのでしょう??

大江健三郎なんて読んだこともないのに、
(かつて読もうとしたときは、難しすぎて意味プーで、3ページでリタイアw)
どうしてドイツまで来て和書の朗読会なんかにわざわざ行ったかって、
そりゃぁ本人が来ていたから!

人の入りはなかなか。
300人は入るであろう講堂が、入場料10ユーロ(高い><)にも関わらずほぼ満席。
日本人も多かったが、7割方はドイツ人だったようだ。
それに、朗読会後には何十人もの人がサイン目当てに列を作っていた…
ドイツの人も意外とミーハーなのね・_・


けど、朗読会自体はドイツ語人の朗読家と大江健三郎が交互にそれぞれドイツ語日本語で本を読み上げる、
というもので僕にはさして面白くなかった。
ドイツ語だけならまだしも、日本語すらもわからなかったw
ドイツ語の前に、日本語学校にでも通おうかな。。

それに対し、質疑応答はなかなかおもしろかった
朗読の中でE.S.Eliotの引用があったのだけど、それに関連して、
どうして大江作品の中では日本人ではなく欧州の作家からの引用が多いのか?
という質問がこういう議論になったきっかけ。
その問いに対する大江の答えは、次のようなもの。


翻訳には、2種類ある。一つは、自分の主張を強化するために用いる。
もう一つは、自分の考えを引っ掻き回すために敢えて用いる。
自分の引用は後者のそれだ。

自分は、20歳の時から50年間以上、毎日欠かさず欧米の文学を日に1時間は読んできた。
その中で、始め自分の中の3分の1は「ヨーロッパ人」だと思っていたのが、
今は、98パーセントは「日本人」で残りの2パーセントが「ヨーロッパ人」だと思っている。
その2パーセントというのは、残り98パーセントの「日本人」を客観的に捉えるためだ。

元来自分は、昔からの「日本中心アジア主義」に異論を唱えてきた。
ヨーロッパの「他中心主義」のように、日本(アジア)においても「他中心アジア主義」がなければならない。
自分の作品は今まで、それを主題にしてきた。


要約すると、大体こんな感じ。
時間が短すぎて、何のことやらよくわからんとこがあったのだが、
ここで特に分かりにくいのは、
大江が現在の「日本人」というナショナリズムに異を唱えながら、
自分自身のことを98パーセント「日本人」だと言っている点だと思う。

大江健三郎が、自らの文学の主題を「他中心のアジア主義」としている点からして、
現代日本の自己中心的ナショナリズムである「日本人」は、
大江が自分の98パーセントを指して使う「日本人」とは違うもののはずである。
しかし、「日本人」という言葉がそれぞれ何を指しているのか、
今日の議論では明確にされていなかった。
(違うもののはずでありながら、大江自身もそこからは逃れられない、ということなのだろうか?)

大江健三郎の言う「日本人」とは?
「他中心的アジア主義」とは??


僕が、こういうアイデンティティの議論で苦手なのは、
例えば「普遍的なアジア主義が必要だ」、とかっていうのは簡単だけど、
それが何なのか、どうやったら可能なのか、まではよく分からないこと。
けれども、大江健三郎はそれを主題に小説を書いてきたのだから、
大江の言う「日本人」とか「他中心のアジア主義」とかっていうのの輪郭は作品に描かれているはず。
それに期待して、入手で来次第大江作品を読んでみよう♪