2008年10月26日日曜日

他中心的アジア主義?

今日は、大江健三郎の朗読会に行ってきた。
何でも、ドイツで"Sayonara, meine Buecher"(Sayonara, my books)という新刊の発売を記念したものらしい。
元の本の名前は何なのでしょう??

大江健三郎なんて読んだこともないのに、
(かつて読もうとしたときは、難しすぎて意味プーで、3ページでリタイアw)
どうしてドイツまで来て和書の朗読会なんかにわざわざ行ったかって、
そりゃぁ本人が来ていたから!

人の入りはなかなか。
300人は入るであろう講堂が、入場料10ユーロ(高い><)にも関わらずほぼ満席。
日本人も多かったが、7割方はドイツ人だったようだ。
それに、朗読会後には何十人もの人がサイン目当てに列を作っていた…
ドイツの人も意外とミーハーなのね・_・


けど、朗読会自体はドイツ語人の朗読家と大江健三郎が交互にそれぞれドイツ語日本語で本を読み上げる、
というもので僕にはさして面白くなかった。
ドイツ語だけならまだしも、日本語すらもわからなかったw
ドイツ語の前に、日本語学校にでも通おうかな。。

それに対し、質疑応答はなかなかおもしろかった
朗読の中でE.S.Eliotの引用があったのだけど、それに関連して、
どうして大江作品の中では日本人ではなく欧州の作家からの引用が多いのか?
という質問がこういう議論になったきっかけ。
その問いに対する大江の答えは、次のようなもの。


翻訳には、2種類ある。一つは、自分の主張を強化するために用いる。
もう一つは、自分の考えを引っ掻き回すために敢えて用いる。
自分の引用は後者のそれだ。

自分は、20歳の時から50年間以上、毎日欠かさず欧米の文学を日に1時間は読んできた。
その中で、始め自分の中の3分の1は「ヨーロッパ人」だと思っていたのが、
今は、98パーセントは「日本人」で残りの2パーセントが「ヨーロッパ人」だと思っている。
その2パーセントというのは、残り98パーセントの「日本人」を客観的に捉えるためだ。

元来自分は、昔からの「日本中心アジア主義」に異論を唱えてきた。
ヨーロッパの「他中心主義」のように、日本(アジア)においても「他中心アジア主義」がなければならない。
自分の作品は今まで、それを主題にしてきた。


要約すると、大体こんな感じ。
時間が短すぎて、何のことやらよくわからんとこがあったのだが、
ここで特に分かりにくいのは、
大江が現在の「日本人」というナショナリズムに異を唱えながら、
自分自身のことを98パーセント「日本人」だと言っている点だと思う。

大江健三郎が、自らの文学の主題を「他中心のアジア主義」としている点からして、
現代日本の自己中心的ナショナリズムである「日本人」は、
大江が自分の98パーセントを指して使う「日本人」とは違うもののはずである。
しかし、「日本人」という言葉がそれぞれ何を指しているのか、
今日の議論では明確にされていなかった。
(違うもののはずでありながら、大江自身もそこからは逃れられない、ということなのだろうか?)

大江健三郎の言う「日本人」とは?
「他中心的アジア主義」とは??


僕が、こういうアイデンティティの議論で苦手なのは、
例えば「普遍的なアジア主義が必要だ」、とかっていうのは簡単だけど、
それが何なのか、どうやったら可能なのか、まではよく分からないこと。
けれども、大江健三郎はそれを主題に小説を書いてきたのだから、
大江の言う「日本人」とか「他中心のアジア主義」とかっていうのの輪郭は作品に描かれているはず。
それに期待して、入手で来次第大江作品を読んでみよう♪

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