2009年6月22日月曜日

ドイツでスポーツ中継を見ていて気になること


最近、結構暇もできてテニスの試合やらサッカーの試合やら、ご飯食べながらテレビで見たりするのだけど、その中で気になることがある。
たとえば、今日なんか、サッカーのコンフェデの試合でアメリカ対エジプト戦をやっていたのだけど、
エジプトのことを「アフリカ人たちが攻め込んでいきます・・・」みたいな感じで、
ドイツのスポーツ中継ではよく「○×△□人」という風な言い方をする。
サッカーの国際試合ならまだ団体競技だし、「エジプト」というのと「エジプト人」というのとあんまし違わないか・・・と思わないでもないけど、「アフリカ人」っていうのは・・・
テニスの試合でも、たとえばフェでラーの試合なんかのときに、
「フェデラー」とは呼ばずに「このスイス人」という言い方をすることがある。

これはスポーツ中継に限ったことじゃなくて、先週まで発表の準備のためにコソボ地位問題の文献をよく読んでいたのだけど、その中ではよく「セルビア人」「コソボ-アルバニア人」という言い方がよく出てきていて、
自分もそれに習った言い方をしたのだけど、今から考えたらやっぱりおかしい。

最近アジアの政治経済について議論しあう学生の集まりに参加していて、その中で日中戦争について発表があったときのこと。
「日本人は中国に侵攻を始めて・・・」
何度もそう言われるとさすがにいい気はしない。

自分=日本では決してないけれど
自分=日本人では必ずしもないにしろ、
自分←日本人(自分こそThe 日本人)でもないにしろ、少なくても
自分→日本人(私は日本人です)というのは成り立つ。

そうすると、だんだん確かに当時の日本人がやったことだけど、今の日本人がやったわけじゃないし、
自分がやったわけでも断じてないけれど、いい気はしない。
これがもし「日本が中国に侵攻して・・・」といわれていてもやっぱりあんまりいい気はしないだろうけど、
それならまだ自分と当時のひとつの国家との間に距離を置いて冷静に見れる。
けど、「日本人」といわれると、私も日本人ですが・・・ってなる。

これは、自分と日本、日本人との同一化が起こっていることのひとつの顕れで、
それ自体否定するつもりはない。
だからドイツ人が自らをドイツ人と呼ぶことを否定するつもりも毛頭ないけれども、
どうしてわざわざ「○×△□人」という言い方を多用するのか、全く意味がわからない。

そういう風に他者を「○×△□人」呼ぶことの裏には、自分たちが「ドイツ人」であるという前提がある。
近年EUという枠組みの中で更なる国境を越えた同一化と差別化が進む社会の中で、
必死に「ドイツ人」というアイデンティティを守ろうとする、
それと同時に他者を排除し自己を守ろうとする、
そんな仕組みの一つなんだろうか。

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