2008年11月13日木曜日

Waltz with Bashir (ネタバレ有w)

午後暇だったので、ふらっと映画館に入ってみた。
ドアを開けるとすぐ、おじちゃんが独りチケットを売っており、
チケットはまだあるか?と訊いてみると、、

「100以上の様々な席からお選びいただけますよ」

だって、笑。
5ユーロ払って中へ入る。


今日見たのは、アリ・フォルマン監督の『Waltz with Bashir』
イスラエル人である監督が、イスラエルによるレバノン侵攻に従軍した時の記憶が抜け落ちていることに気づき、共に従軍した戦友のもとを訪れ話を聞くことで、失われた記憶を取り戻そうとする物語り。

明かりが暗くなり、映画が始まった!と思ったら、なんとこの映画、ラストシーンを除いてアニメーションだった。
ラスト、自身主人公である監督が、最後まで抜け落ちていたパレスチナ難民虐殺の記憶を思い出す。
そのイメージも始めアニメーションで映し出されたのが、いきなり虐殺後のベイルートを撮ったニュース映像に切り替わる。
そこで観客は、アニメーションの背後からも聞こえていた悲鳴が、現実のものであることに気づく。
最後、カメラは虐殺で死んだ子どもの顔をアップで写して終わる。

なぜ、監督はラストでのみアニメーションではなく現実の映像を使用したのだろうか?
簡単に思い浮かぶ答えは、ラストでのみ現実の映像を使用しアニメーションと対照させることで、映像のリアリティを高めそれを観客の記憶に深く刻もうとした、というもの。
確かに、衝撃はあった。
自分は、ドイツ語力の問題で、セリフの10パーセントくらいしか理解できなかったにもかかわらず、ラスト・シーンから深い衝撃を受けたということは、イメージが人の心を動かす力を持ったということを現実に示している。

しかし逆に、ラストシーンのイメージが衝撃的過ぎて、それまでのアニメーションで語られたものがないがしろにされるのではないか?
という疑問がここで生じる。
ラストシーンのためだけにそれ以前のアニメーションがあった、と言われればそれまでだが、
アニメーションを通して戦友から語られる言葉が、もともと監督が戦友をインタビューしたそのものの音声だった、ということを聞けばそうもいかなくなる。

ここで驚きなのは、自分が家に帰ってネットで映画について調べるまで、この映画がドキュメンタリーであったということに気づかなかったことだ。
自分の鈍感という原因以外に、映像がアニメーションであったというよりむしろ、音声が吹き替えられていたということに原因がある思う。
吹き替えでは、語り部の微妙な声の抑揚から感じられる感情の変化など全く感じられなかった。
本来、戦友に対するインタビューはそれ自体、記録として意味を持つべきもののはず。少なくても自分には、それがアニメーションによるフィクションとして捉えられてしまった。

広瀬隆一の『Nakba』では、パレスチナにおける問題が40年以上にもわたる取材をもと描かれ、第一義的に歴史の記録したドキュメンタリーとして十分すぎる意味を持つものだと思う。)

これが翻訳によって起こった忌忌しき事態だとすれば、
映画のインタビューの部分のみを取り出して考えた場合、音声のみ本来のものを用い、映像はアニメーションを用いた意図はなんだったのか?(敢て動きの少ないアニメーションを用いることにより、現実の音声に注意を向けさせリアリティを高める?)
例えば字幕で見たら、どういう風に見え方が変わるのだろうか?

また、言葉はイメージの捉えられ方を方向づける。今回ドイツ語がわからかった僕はこの映画をほぼイメージだけで捉えたが、そもそもドイツ語がわかれば、もっと違った見方(ひょっとしたら違った見方)ができるはず。言葉がわかっていれば、ラストシーンの捉え方も変わったのだろうか?

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