
2011年8月14日、テルアビブからバスで1時間も行くと、
そこには砂と岩だけの荒野が延々と広がっていた。
その光景は確かに壮大だった。
けれども、きれい、と素直に思える景色ではなかった。
なぜなら、そこに植物や生き物の気配がなかったからだ。

日本であれば、青空の下には深い森が広がっていただろう。
雲ひとつないのは、水気が全くない証拠だ。
「厳しい環境だからこそ、イスラム教のような厳しい宗教が生れた。」
とはよく言われる。でも、このイスラエルの地で
神の存在をどこに感じろというのか。
そもそも、どうやって生きていけるというのか。
それでも、この地に人は2000年以上前から暮らしてきた。
しかも、厳しい戒律を求めるユダヤ教に対し、
「許し」を施すキリスト教が生れたのはこのイスラエルの地だった。
けれども、日本のように何にでも神が宿っている、「八百万の神」
という考え方が生まれないのはよく理解できた。
この不毛の大地では、そんな悠長なこと言ってられない。
そんな厳しい環境の中、彼らを更なる絶望に追い落としたのは、
この死海だと思う。
荒野を旅した人々が、やっとたどり着いたオアシス。
のはずが、植物も育たない、生物もいない、
飲み水になる筈もない塩の湖なのだから。
では、そんな絶望の底で彼らは何に神(希望)を見出したのか?
この死海の光景を見た時、そのひとつの答えを出すことができた。
いくら生き物がいなかろうと、緑が一点たりともなかろうと、
この地球が織りなす光景というのは時に超絶に美しい。
たとえ、疲労と空腹に身を悶えようとも、生への意志ある者は、
美しいものに感動せざるを得ないのではないか。
その考えに至ったとき、すべてを超越する神の存在を信じる人々を
すんなり自分のなかに受け入れることができたような。



Pizza in the north part of mitrovica, 









This is typical house in Pristina.
mosque.
orthodox church near the University Library.
















