自分が部屋に篭っているいつの間に、
こんなに雪が積もっていた。
新雪のクツクツいうのが堪らなく気持ちいい。
今日、ドイツに来てから初めてプレゼンした!
先週の火曜、国際関係論のゼミ中に、日本の話題が出たにも関らず、
ドイツ語がようわからんし、
そもそもなんかようわからんし、
まったく発言できない自分がいて、
授業中に独り泣きたくなり。。
というのは、soさんがいつかブログで言ってたみたいに、
「授業に、さしては学問に貢献したい」って言う気持ちがあるのに、
まったくできてないって言う絶望。
自分が交換留学生としてドイツに来ているのに、ドイツの学生に全く貢献できていない、
=自分の存在はないに等しい、っていう悔しさ。
それを今日、少しは晴らせたと思う。
けど同時に、ただの自己満足っていう可能性も十分あり。
友達は、すごくよかったって言ってくれるけど、
ドイツ語できないわりにはがんばったね、って意味なのか、
内容がよかったよ、って意味なのかは不明。
残念だけど、たぶん前者。
それにしても、そのドイツ語さえ友達のドイツ人に全部直してもらってるから、自分の力じゃないし。
それでも、ここはおだてられるがままに、
授業の後わざわざよかったって言いに来てくれた人の言葉を糧に、
これからも精進いたします。
ちなみに、発表は大正デモクラシーについて。
内容はというと疑問を呈する形で終わっていて議論にもなっていないのだけど、
まぁ以下のとおりです。
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1919年、原内閣の成立は政党政治の始まり、
つまりは民主主義への第一歩として認識されているが、
原内閣の制限選挙改革をみると、原が目指したものが人民を中心とした政治の実現ではなく、
政友会により政治支配であったことがわかる。
ここで、それなのになぜ原内閣の政党政治が「民主主義」として認知されたのか?
という疑問が生じる。
この疑問に対して当時の国際関係における日本の位置から一つの答えを出すために、
次に原内閣の第一次大戦後におけるパリ講和会議における人種差別撤廃案に目を向ける。
第一次大戦後、世界における列強の一角の地位を占めると自負した日本は、
同時に唯一の非白人国として自らが差別されているのではないかという自意識に苦しめられていた。
この状況から見ると、人種差別撤廃案とは普遍的な人種的平等ではなく、
西欧列強に対する日本のみに対しての人種差別的意識の撤廃を意味していたといえる。
このように、「白人=文明人」にあこがれると同時に、「白人=支配者」に対抗するというアンビヴァレンスな状態を、小熊英二は『<日本人>の境界』のなかで「有色の帝国」と定義した。
大正期日本における「デモクラシー」という言説をこの「有色の帝国」の中に当てはめると、
「デモクラシー」とは、「白人=文明人」にあこがれるがゆえに、その一員となるためのベールであり、
また「白人=支配者」に対抗するゆえの帝国主義を覆い隠すためのベールであったのではないか?
と考えられる。
ちなみに、現在自らを民主主義と名乗っていない国は、
サウジアラビアとビルマ(ミャンマー)のみ・・・
北朝鮮も、朝鮮
民主主義人民共和国。